睡眠不足が身に沁みる

もう若くないなぁと自覚する。
7時間は寝ないと、日中眠いということがわかってきた。
うたた寝しちゃうし、集中力は下がるし、特に朝のエンジンのかからなさが半端でない。
7時間寝るには、寝付きの良し悪し、睡眠の質の良し悪しのランダム性を鑑みて、8時間は床につきたい。
しかしそれを許さないのが夜の誘惑(主にゲーム)。
なーんで夜はあんなに気が大きくなるんだろう。
ダメだってわかってるのに、いや大丈夫だよ、ちょっとくらい睡眠削ってもっていう悪魔の誘惑を断ち切れない。
結局次の日後悔したり、眠気で結局夜更かしした分の時間を無駄にしたりと、散々な目に遭うのだ。
昔は、ショートスリーパーになるには、みたいな本も読んだりしたけれど、無理だわ。というか、最適な睡眠時間は人それぞれで体質の問題だから変えられないみたいだし。
まあ何をやらせても凡人な自分には、せいぜいコンディションを整えて、ゼロよりマイナスにならないようにしなきゃダメなんだ、無理してもなんとかなる若さももうないから、体調を整えることについて意識的にリソースを割かなきゃいけないんだな、と最近とみに思うのでした。

私の見える範囲

うちに…出向で来てくれてた人が、いなくなった。
契約期間が終わって、いなくなった。
その人は、お世辞にも優秀な人ではなかった。
ある分野のスペシャリストとして契約したのに、力を発揮することはなかった。
隠していたとかじゃない、最初からなかった。
だから、ウソつき、って思ったし、費用対効果が合っていなくて、面倒を見る私も肝が冷えた。
指示待ち人間…
一言で言えばそうだろう。
でも、その人は、できなくても、注意されても、引きずらない人だった。
気がつけば、にへらっとして、雑談を持ちかけてきたりした。
そんな姿から、自分も学ぶことがあると感じたのだった。
私は、自分の感情を制御することが苦手だから…つらい、とか、いやだ、とか、ああ、怒られたな、ってときは、表に出ちゃうし、その日一日は立ち直れないから、…。
だから、その人は、すごいと思った。
こんな人には会ったことがなかった。
そんなポジティブなところは素直にあやかりたいと思った。
人間の価値評価って、色んな軸があるんだなって思った。
仕事ができなくても、ポジティブ。それでいい。
学びを得た出来事だった。

別の、辞めた人のことも思い出す。
今まで、人が辞めるときって、会社に居場所がなくて、追い詰められて、逃げるように、辞めるものだと思ってた。
でもその人は、次の職場ではこんなことがやりたいとか、お賃金が増えるとか、楽しそうに未来のことを語っていた。
そんな人は自分にとっては初めてで、思い返すとパラダイムシフトを感じていたと思う。
自分の人生は自分で選べること、今の会社にいても良いし、別のところに移ってもいい。
それを選ぶことができて、離れることを選んだ人はいなくなった、そういうことだったんだ。

自分は、今の場所で生き延びているだけで、えらいと思っていた。頑張っていると思っていた。
それはそれで良い考え方だと思うけど、これからは新しい視点を持っていこうと思った。
それは、自分はこの場所にいることを、自分の意志で選んでいる、ということ。
ここにいる理由を持って、ここでやるべきことを考えて、自分の選択が、ウソや惰性にならないように、常に自覚していること。
それが、私がここにいる意味、なのかもしれない。
これが、大人なのかな、なんて。わかってる。自分は年齢的にはいい大人。でも、精神的には未熟者なの、わかってるから。ずっと誰かの後ろで、矢面に立たないように、責任を持たないように、逃げ続けてきたんだから。
それが、殻を破って、出てこようとしている。生まれたばかりのひよこは、とっても傷つきやすいかもしれない。実際、傷つくこともたくさんあると思う。
それでも、一歩踏み出せるかな。
黄色い産毛が、白い毛に、変わっていけるかな。
待ち構える未来は、少し怖いけれども、期待もほんのりと感じている。

生まれて初めて人狼ゲームをした話

こんなコミュ障が人狼なんてできるのか?
結論、できるはできたのだが、死を覚悟したのだった。

やったのはGoose Goose Duckというゲームで、Among Usのフォロワーらしい。
内容はほとんどAmong Usと同じとのこと。
Gooseが市民で、Duckが人狼人狼は市民を殺すように動く。市民は殺されないように立ち回り、人狼を見つけ出し、また、別の勝利条件、タスクを一定数こなすことで勝つことを目指す。
死体を発見したり、ディナーを開くことで、討論時間に入る、そこで誰を人狼と見なして殺すかを決める。過半数の票が入らないと、誰も殺すことなく討論の時間は終わる。

本当の人狼ゲームを知らないからなんとも言えないけれど、アクション要素があって、マップ内の視界は制限され、ボイチャの聞こえる範囲も制限されるのは、ゲームとして楽しいなと思った。いつ殺されるか分からないという孤独感が強く味わえる。人狼側としても、殺した瞬間を他の市民に見られていないか、スリルを味わうことができる。

今回は、8人ほどで遊び、2人が人狼だった。
自分含めほとんどが初心者で、手探り状態でのゲームだったが、みんな慣れてきて、最終的には、負けた時には反省点と悔しさを感じ、勝った時には手応えも感じられて、ルールを把握できてきたということだなと感じられた。

このメンバーは、ほとんどが初対面か、1回会っただけの人で、友人と言える人は1人しかいない状態だった。
4時間ほど遊んだが、緊張感と高揚感でアドレナリンどばどばの状態だったなと、今になると感じる。

さて、その後が問題だった。
完全にもぬけの殻になってしまった。なんにもできなくなってしまった。アドレナリンが切れ、自分の魂は死んでしまった。
初めての人と会話すること、どころか討論まですることの緊張、これで精神が完全にすり切れてしまったようだった。
結局横になってYouTubeを見るくらいしかできず、4時間遊んだ後の4時間、死んでいた。
さすがに腹が減って食事をして、そこから少しずつ生き返ってきた。それでもその日一日は、人と会話をするのもままならず、蚊の鳴くような声しか出ず、人に自然に微笑みかけることもできず、完全にMPが切れた状態になってしまった。
こんな経験自体初めてで、自分で驚いた。楽しかった、それは間違いない。でも、精神が疲れてしまうことに驚いたし、ここまで疲れ切ったことも驚いたし、自分のコミュ障性が完全に発揮された瞬間だったと思ったし、その、自分はファッションコミュ障で、ほんとはコミュニケーションできる人なのかもしれない、という一縷の望みが絶たれた瞬間でもあった。自分は人と話すと、親密度の高くない人と話すと、確実に「削れる」。それはもう、現状ではどうしようもないのだとわかった。だってこんなに楽しかったのに。別に体調も悪いなんてことないのに。でも死んでしまったんだから仕方ない。なにも言い訳できることはない。自分はコミュ障であるという自己認識を確かにして生きていこうと思った。話しすぎて疲れることを自覚しよう。これ以上この場にいたら死ぬと思ったらそこから離れよう、楽しくて寂しくても。自己理解が深まった一日だった。

さて、人狼ゲーム、特にGoose Goose Duckに対する感想。
未来を変えられるゲームだと思った。
誰もが他のみんなを知ることはできないから、知っていることについて討論で主張できることが、この類いのゲームの肝であり、面白さだと思った。
みんなで主張し、つるし上げる人を決める。そう、過半数の支持が得られないと決定されないから、討論で皆の意識を合わせることは必須なのだ。
だが、同時に、自分にとっては一番苦手な部分だった。
自分のやっていたことを話すこと自体も苦手だし、話しても疑われてしまうこともあった。
これはゲームなのである。人狼ならばある程度嘘をついたり道化を演じたりすることも、勝つためには必要なのだ。
それでも…自分は自分の殻を破ることができなかった。恥ずかしかった。嘘はつかない、ありきたりのことを言うことは心がけたけど、それ以上に踏み込んで物を言えなかった。
恥ずかしいよ。あれウソだったのとか後からばれるとか、演技してみせたりとかって。ほんと。
だったらゲームとして参加できていませんね、といわれたらその通りで、楽しいな、とは思ったけど、サボってただろ、と言われたら言い返せないのだった。
そういった後悔もあったかもしれない。ゲームを遊んだ後のダメージには。

自分は、ゲームとして、その、アクションパートでの立ち回りは結構うまくやれていたと思った。シリアルキラーだってやってのけたし、それで勝てた回もあった。
でも、討論が大の苦手なのだった。
自然言語で意見を通じ合わせる。口調やトーンでウソやホントを感じ取る。何かしらの結論に民意を寄せる。む・ず・か・し・い。
そのときは、幹事役をよくして、沢山話してくれる人がいたから楽だったけど、自分にそのムーブはできないなと思った。
なんなら、ウソやホントを感じ取るには、アクションパートでの動き方の方がよっぽど自分にとってはわかりやすい。市民ならこんな怪しい動きはしないって、わかるもん。そっちの方が血が通ってダイレクトに感じられるもん。
これがゲーマーの性かな、なんて。

結局、自分の人間性みたいなものが浮き彫りになった一日なのだった。
ゲーム内のほうが人の心が分かる自分、討論が苦手な自分、遊びきった後はコミュニケーションポイントがなくなり燃え尽きてしまった自分、そんな自分を知ることができた。
そうなることがわかっていたから、今まで人狼ゲームを避けてきたのかもしれないね…。
楽しかったけど、次やるか?と聞かれたら、…。ポジティブでもない、ネガティブでもない、ニュートラルかもなって。

あと、こんなに自分の弱点が浮き彫りになったんだ、こんな自分でもコミュニケーション能力を高めることはできないだろうか?というのは興味を持った。
どうしたらいいんだろうね。コミュニケーション能力を高めるセミナーとかカウンセリングとかあるのかな?でもだって4時間灰になった人間だよ!?そんな自分でも変わることができるのかなって不安になる。でもいつもコミュニケーションが苦手な自分だから、克服できたらちょっと人生も楽になるかなって思う。
こんな自分は何から始めればいいの??ゴールを決めるとしたら、まずは、お話しても疲れない自分になりたい。疲労量を減らしたい。
身近な人、つまりどれだけ話しても疲れない人、とのコミュニケーションでも、積極的に増やしていったら、コミュニケーションへの不安感は薄れていくかな?なんか休みの日こんなことがあったみたいなことを一生しゃべり続ける、みたいなのでもコミュ力伸びるかな?自己開示が必要なのかな?その、この話題はやめとこうみたいなブレーキが、疲れにつながるのかな?コミュニケーションと、そこで受けるダメージと、その克服法と、全部が課題で、でも全部全然つながらない、不思議な感覚。
コミュ障改善の秘訣を随時募集中です!コミュニケーション本とかも興味深いです!

という感じでした。振り返ると興味深い体験だったなと。ほんとに、ほんとにね、終わった後の何もできない感じはやばかった。精神だけ死んでいて、精神が死ぬと体も動かせなくなるんだなって、これって、これってごめん、当事者がいて軽はずみな発言だったら申し訳ないんですが、鬱の症状そのものなんじゃないかな、って思った。
それって、お仕事で会議がありますってときも、たとえば運悪く一日中会議で埋まっていましたってなったら同様に屍になる可能性を秘めていて、それが怖い。
でもどうしたらいいかわからない。うまくいかない自分を感じる。このままだと屍予備軍だなっていうのも怖い。
答えも結論もない、生身の体験談でした。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

自分の無能さをようやく自覚した
今の自分に何が残されているのかわからない

それでもいい。それでもいい。
それでもいい。
それでもいいんだ。
自分は…自覚することがようやくできた。
もう一生できない人間でもいい。
何かを系統立てて考えるのも実はもう無理に近い。
どうかな。逃げているだけかな。
甘えているだけかな。
でも、そのくらい、自分をなくしたいとおもった。
何でも良かった。
自分の人生をどのようにしてもいいんじゃないかと思えた。
なんかやってみたいことをただやるので良いと思った。
今までやったことのないことをいっぱいやってみたいと思った。
仕事では苦しむことがおおいかもしれない。
でも自分の心の中は平穏でいたい。
苦しんで自分を傷つけるのはやめたい。
なにか空間をなくしたい。
悩んだり傷つける空間をなくしたい。
今まで自由気ままに生きてきた。
それが、自分に与えていた選択しが、自分を苦しめていると思った。
それならばもう逃げればいいと思った。それでいいでしょ?
予定を入れてみることにした。
とにかく入れた予定に従ってみようと思う。
なんというか、抵抗するのに疲れた。
無条件に従いたい。
それが正しくなくていい。効率が悪くてもいい。
量を定めず、時間だけ定める。
できなくても許してほしい。
どのくらいできるかは自分でもわからない。
わかりたくない。
突然、F6とF7の文字が見えなくなった。
これが盲点というものらしい。
自分の盲点はどのくらいある?
バイアスはどれくらいかかっている?
理想の姿を追い求めるのはもうやめる。

自分は…理詰めと創造性の間にあるものに興味を持っている。だからソフトウェア開発は関心があった。でも最近は苦しいところがあった。知識競争に巻き込まれていると感じた。つまり、プログラミングのうまさは、細かい知識を知っているかどうかによって決められているように感じた。これは環境によるものかもしれないが。また、多くの人は動けば良いと思っていると感じた。綺麗で保守しやすいプログラムには誰も関心がない。だが、自分も上手にはやれていない。保守を行うとき、情熱がなくなっている。元々ある巨大なプレハブにちょいちょいと修繕を加えていくことに、やるせなさを感じていた。これは的を射ているように見えて実はそうではないことはわかっている。自分が本当にソフトウェア開発に真摯に向き合っていたら、もっと良くできた。理想に近づけたはずだ。でも自分はそれをしなかった。学ぶこともしなかった。自分の情熱はそこにないということだ。自分を自分でモチベートできていなかったのだ。ならどうすればいいのか。このまま、じゃあ他の業界に行けばいいかというと違う。同じ轍を踏むだろう。情熱を保てないだろう。自分の情熱の火をいかに絶やさないか、毎日成長し続けられるか。自分にはわからない。このままうだつの上がらないまま、仕事に楽しさや情熱を感じられることもなく朽ち果てていくのか。それはいやだ。それはいやなんだけど、一歩踏み出せることもなく、チャレンジすることもなく、また一日が終わる。また何もない業務が始まる。

どうして怒りっぽくなるのか

どうして怒りっぽくなるのか
多分、自分の考えを言葉で表現できれば、怒り…一瞬イラついてもすぐに解消できるはずだ
伝えられないことがあったり、何かの障壁があって感情を表現、発散できないと怒りにつながるのではないだろうか。

感情優位、前頭葉