本との付き合い方、変わる

ここしばらくは、確実に自分の糧になるであろう、網羅的で包括的な内容を取り扱う本を選んできた。 ニッチめなよい本、とか、心のカンフル剤、とか、自叙伝、みたいな本は読まないできた。 その代わり、読む本に関しては目を皿にして一字一句逃さず吸収するぞ、そんなスタンスで臨んできた。

ももしかして、読書って質より量なのではと思い始めている。

何かの技能を身につけるには、それに関する基本的な動作を、まったくの無意識で繰り出せるようになるまで練習すべし、という言葉を最近よく目にする。 確かに、文章も、語学も、楽器も、絵も、運動も、プログラミングも、ゲームも、きっとそうだ。 基本をノーストレスでできるからこそ、応用的なことを考える余地ができる。

知識や教養もそうなのではないか。 最近、昔読んだ本のことを何かの拍子で思い出すことが多くある。何かの意見を話そうとしているときに、本の内容を思い出す、みたいな。一生懸命読んでいたわけでもない本でも、思い出すことがある。知識が有機的に繋がる瞬間ってこういうことなのかな。

つまり、なんでもかんでも吸収する。興味があることないこと、たくさん読んでみる。今は役に立たなくても、それは自分に貯まっていって、人間としての深みになるんじゃないか。

だから、本を読む。とにかくとにかく読み進める。いまはわからないこと、面白くないと思うことも、ま、流し目でも良いからとにかく読む。 このスタンスもまた、納得する。 そんなこんなで、最近、読む本の種類を変えている。買う本が今まで以上に見境なくなってきている。

ガンガン読み進めていこう。いいんだ、目を皿のようにしても、どうせ忘れるんだよ。大丈夫、その中で少しでも記憶に残ったものが大事なことだし、そういう文はわかる。雑に読んでいたとしても、良いところは見逃さない。これまでもそうだっただろう。 ある意味、今までの読書経験で知ったことはこの段落の内容に尽きるかもしれない。