regret

喪失の悲しみ。
でも、自分が悲しんでいいのか?とも思う。
自分が悲しんでどうする?

自分のものじゃないじゃない。
悲しいということは、少なからず自分のものという認識があったからじゃないかと思う。
それはうぬぼれだと、自分の感情の動きで気づかされる。

たとえば、一緒に仕事をしている人間が辞める、と言う際、自分はどういう感情を抱けばいいのだろうか?
積み上げてきたものがなくなるから辞めてほしくない、それは間違いない。
でも、自分で考える力がついてそう判断するに至ったのなら、それは願ってもないことだ。
うぬぼれながら、自分が導けたのかな、とも思ったりする。うん、これが入れ込みすぎなのかも。

ともかく、どんな判断であれ、そこには自分が介入する余地はなくて。
他人の言葉で変わるくらいの決断なんて価値はないだろう。カマをかけているレベルだろう。

だから、そういうときは思い切って見送ってやるべきだろう。
そうか、喪失の悲しみにしがみついているのは自分なんだ。
どんな未来であれ、目はそらさないし、いや、そらしようがないのだ。