模索

今まで結構な間、自分は何者だろうか、本当の自分は何か、天職は、生き方は、などと、悶々と考えたり、本を読んだりして生きてきたが、いよいよわからなかった。

何かを知りたい、何かのヒントを得たいがために、本を読みあさり、そして、内容を忘れてきた。本を読んで何が残ったのかはよくわからない。

自分に残された時間がいくらあるかはわからないが、とにかく、食いつぶしている自覚があって、というか、今までの時間は何だったのか、説明しようとしてもよくわからない。ただ呑気に死なない程度に生きていた。

はて、どうしたものか。正直に、自分は頭がいいと思っていた。本を読めば自分の糧になる、そして完全な存在に近づく、そう考えていた節がある。でもそんなことはなかった。本の内容はろくすっぽ覚えていないし、何か、たとえば英語を身につけたとかそういうこともない。仕事が上手になることもなければ、うまい文章を書けるようにもならない。計画性もなく衝動的に生きていて、怒りっぽい。

この列挙したものをぜんぶ逆にしたのが自分の理想ということだし、それに関わる本を読んだこともあるが、なんとも変わらない。

いつしか読書の目的は、内容を自分の糧にすることより、ただ活字を目にしたいというだけになったのか。

もしくは、すごく成長しているんだけど、何かと自分に完璧を求めてしまって、いつまでたっても良く見えないということなのか。

なんにしても、自分は満足していなくて、それが空虚さとなっている。

はてさて。話がそれた。 遅まきながら、自分の読書が、読書の目的の軸がずれていたことに気がついた。そうしたら、本を自分の骨肉とするよう、読み方を変えるしかない。それはとりもなおさず、勉強することを意味する。

たぶん、今までの読み方でも、なんかは頭に入っている。たとえば、もう一度本を読み直せば内容がよみがえってくるだろう。今はそのトリガーがない。

インプットしたことをアウトプットする。本当に理解したい、覚えたいことならそうするしかない。 いわゆる認識語彙と運用語彙のことだ。実際に使わないことには使えるようにならない。当たり前のことだ。練習しないで使えるようにはならない。自分で書いていて当たり前すぎて、でも心にはグサグサときていて。今まで読んだ内容を実践することなどなかったから。読んで満足していた。読んでそれで使えるだろうと思っていた。んなわけない。練習しないでできるわけない。スポーツとか楽器ならすんなり理解できるんだけど、知識的なこととか、頭脳労働、文章力とか、プログラミングの技術とか、語学的なものとか、なんか見りゃわかるだろうとか思っていた。愚かだ。書いていてほんとしんどい。そんなわけないだろう。

だから、勉強することにした。とにかく、毎日自分の荷物に参考書とノート、筆記用具を入れて、スタンバイしている。喫茶店に行って、ひとしきり集中する。ここのところの週末はそうしている。

そうしたら、毎週末の満足度が高まっている。読書の目的は、読み流すんじゃなくて、理解し身につけることなんだろう。自分がそれを心の奥で欲しているのだろう。何かを達成したことを、喜んでいるのだろう。

がむしゃらな読書に比べたら、インプットの総量は減るだろう。そのぶん、自分の決めた事柄を骨の髄までしゃぶり尽くすつもりだ。自分の理想へ、1ミリずつでも近づいていけば、本当の自分、求めているもの、なりたいものに近づける、今はもやもやで見えていないものが見えてくるはず。だから、勉強を続ける。自分の興味が指し示すものの奥に、きっと何かがある。