集中力がほしい

今日は、とても気持ちよく仕事ができた。 いわゆるフロー状態に入った。それは久しぶりのことだった。

また入りたいから、今日の状況とか感覚をメモっておく。

  • 時間は夜遅くなってから
    • 夜型だから?
    • 人が少ないから?
  • 興味のある仕事だった
  • うまくいきそうでいかなくて、少しいらついていた

時間が遅くなってから集中力が上がるのはずっと前からそうだった。 きっと昼の時間帯は夜の半分も出ていないんじゃないかと思う。 これはつらい。いるべき時間に集中できず、いるべきでない時間に集中できる。 昼間に集中できるようにするには…たとえば、早寝早起きして脳のエンジンがかかるのを早める、とかだろうか?

興味のある仕事については選べないこともある。だが、つまらない仕事を興味深くやる方法はあるかもしれない。

うまくいきそうでいかなくてイライラ、これは少し難しい。 イライラすることで近視眼的になってしまい、結果的に非効率な手段をとってしまうことも結構あるからだ。 だが集中という観点から考えると、うまくいかないから別の手段をとる、そういう試行をたくさん行うことで、集中力にドライブがかかっているのかもと今日感じた。 それはある意味近視眼的だからできることで、Aがうまくいかなかったら近いA'の手段を即座に試してそれもダメだったらA'‘。 作業をひっきりなしにやる下地があった。 じゃあどうすればいいか?作業を小さな作業に切り分けてガスガス進めていくのがいいんだろうなぁと思う。 けど、作業を切り分けるのが難しいんだよなぁ。作業をやる前からそんな予想できないよ。 じゃあせめて、今やっている作業は想定内か想定外か、想定外だとすると道にそれていないか、つまり意味のない作業をしていないか、意識する。それなら、この作業は間違っていない、気合い入れてやっていいんだ、と理解して集中を促すことになるかもしれない。

たくさんの作業を用意しておく、というのはGTDの考え方だなぁ。理解はできるが続けられない。だから、上に書いたことも自分で納得しつつも実際に行うのは難しいだろうと考えてしまう。

どうしたものか。仕事をどう進めていったらいいんだろうな。

another world

それなりに大きな街に住んでいる。 終電での帰りになってしまったのだが、おなかがすいてしまったので、24時間営業のファーストフード店に寄った。

そこは異様な光景だった。

屍、屍、屍。

みんな、テーブルに突っ伏して寝ている。食事をしている人などいない。 老若男女、さまざまな人びとが、休息をとっていた。 そうか、それもそうか…。ここは、終電をなくした人の最後の居場所なんだ。

この街に住んで長くなるが、初めて知った。盲点だった。 自分の知っている世界はまだまだ狭い、そう感じた。

よどんだ空気のなかで食事をするのは不快だったが、先人にとっても、この時間に食事をされるのは不快であっただろう。 食べ物を流し込み、逃げるように立ち去った。 味はよくわからなかった。

済んだ外の空気に癒された。人通りの少ない道を選んで歩いた。

いのちの数だけ輝きがある

他人の嫌なところが目につくことがある。でも、それがどんなに嫌でも、その人をさげすんだりできないと思う。 さげすむってことはその人自身を否定することになる…

人はそれぞれ意識をもって生きている。意識が全く同じという人はいない。 そう考えると、どんな人にも人生の積み重ねがあって、それは自分の人生とくらべられないし、等しく尊重されるべきものだと思う。

こんなことを考えるようになったのはごく最近。年をとったということか…。 昔は、嫌いな人はみんな死ねばいいみたいに思っていたから。

その人はその人の良いところがある。あるできごとを表面だけ見て短絡的に判断してしまうのは、きっともったいないこと。 そう考えていくと、まわりの人はみんな輝いているな、と思う。 自分も自分の輝きを見つけたい。一つの輝きを強めるのと、まだ輝いていない部分を磨くこと。

人生は時間制限がある。その中でなにができるかな。 まず、自分の積ん読さえ読み終えるのはいつになることやら…? とにかく、自分が輝く選択肢を大事に選んでいきたい。輝けるかどうかは、自分の心でわかってる。自分にうそをつかない。

書こうとした記事が既に書いてあった。 なんというか、自分のワンパさとか、おんなじこと何回も考えているんだなぁと思った。 そして、自分の文章への考えも変わる。書けば書くほどうまくなっているように感じるときもある。今日は間を空けたからヘタクソになったと感じる。 夜更かしはよくないね。頭が雑になっている。

本との付き合い方、変わる

ここしばらくは、確実に自分の糧になるであろう、網羅的で包括的な内容を取り扱う本を選んできた。 ニッチめなよい本、とか、心のカンフル剤、とか、自叙伝、みたいな本は読まないできた。 その代わり、読む本に関しては目を皿にして一字一句逃さず吸収するぞ、そんなスタンスで臨んできた。

ももしかして、読書って質より量なのではと思い始めている。

何かの技能を身につけるには、それに関する基本的な動作を、まったくの無意識で繰り出せるようになるまで練習すべし、という言葉を最近よく目にする。 確かに、文章も、語学も、楽器も、絵も、運動も、プログラミングも、ゲームも、きっとそうだ。 基本をノーストレスでできるからこそ、応用的なことを考える余地ができる。

知識や教養もそうなのではないか。 最近、昔読んだ本のことを何かの拍子で思い出すことが多くある。何かの意見を話そうとしているときに、本の内容を思い出す、みたいな。一生懸命読んでいたわけでもない本でも、思い出すことがある。知識が有機的に繋がる瞬間ってこういうことなのかな。

つまり、なんでもかんでも吸収する。興味があることないこと、たくさん読んでみる。今は役に立たなくても、それは自分に貯まっていって、人間としての深みになるんじゃないか。

だから、本を読む。とにかくとにかく読み進める。いまはわからないこと、面白くないと思うことも、ま、流し目でも良いからとにかく読む。 このスタンスもまた、納得する。 そんなこんなで、最近、読む本の種類を変えている。買う本が今まで以上に見境なくなってきている。

ガンガン読み進めていこう。いいんだ、目を皿のようにしても、どうせ忘れるんだよ。大丈夫、その中で少しでも記憶に残ったものが大事なことだし、そういう文はわかる。雑に読んでいたとしても、良いところは見逃さない。これまでもそうだっただろう。 ある意味、今までの読書経験で知ったことはこの段落の内容に尽きるかもしれない。